稼業と家業

ヤクザの語義は無職渡世の遊び人とされる。敗戦後の動乱期、駅前の闇市で食い扶持を求める若者達がケンカ上等と睨み合う中、法治ではなく人治解決の顔役が悠然とご登場。泥だらけで混乱する狭い通路に白いスーツ姿でスックと仁王立ちし、ヤメンカイと一言を発す。脇を固める幹部達が両手を握りしめケン力制止の動きを始めた瞬間、ボスのヤメトケを合図に5、6人が背中を見せて移動する。神戸三宮の国際マーケットで勇名を轟かせた菅谷政雄その人である。この時期神戸には俠道世界の名門、大島組があり、その一組織として山口組は所属していた。田岡一雄が三代目を継いだ時には50人度の組織に過ぎなかったが、田岡はこれからのヤクザは生業を持つべきとの言葉を唇に乗せて独立した。多くの愚連が貧困からの脱出をめざし、彼の言葉を一条の光として先を競って参集した。世の中が大戦からの復興景気に沸く流れに合わせ、きい、汚い、危険の3Kとされる職域市場を田岡率いるやさぐれ集団が席巻し、関西の港湾、運輸、土木建設、さらには山本健一らが鶴田浩二の頭をレンガで叩き割り芸能事業までも押さえた。まさに破竹の勢いであった。本来ヤクザは、冒頭定義のとおり無職無宿が基本であったが、いつのまにか豪邸を構え、無法暴力集団になり、あえて言えば交際商社代表として存在感を示してた。モットーは、世間のヨゴレモノは全て処理します、だ。さすがに、警察も看過できず撲滅活動に尽力すが、固い契りの義兄弟宜しく山口組は、徒党を組んで各種企業や団体活動の闇に銃口を光らせて大金を収奪してきた。総会、入札、闇金融と彼らの活躍舞台は拡がり続けた。上記菅谷、殺しの柳川、代紋大事の山健、男で死にたい加茂田等々の親分衆が全国制覇の檄を飛ばした。広島では仁義なき戦いが繰り広げられ、夜桜銀次は名前通り九州制覇の先兵として命を散らした。この増強山口組に激震が走った。1984年、三代田岡の妻文子が先代の遺言として竹中正久を四代目に推挙したことから、何を今さら遺言かと、反発した一団が一和会を結成し、山一抗争が勃発した。約5年の経緯詳細や結果の説明は略すが、この抗争が暴力団排除条例に帰結した事実は、極めて重い。社会的な害悪集団であるとの認定が、現状ヤクザの呼吸困難に至らしめている。この始点は三代目姐の発言にあると理解できる。田岡自身がめざしたのは、山口組をモメ事解決の万能包丁として機能させ、一大コンツェルンを構築する事であったと考える。稼業の公開化である。そのためには、政府のお目こぼし維持する旨を信条としていたが、彼の妻が稼業を家業に戻してしまった。家業なら実子を跡目にするべきだった。

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