漫才の本質
笑い、漫才の講である。[ボケ]と[突っ込み]役
の二人が寄席や演芸場の舞台に立ち、つまらない話
を交互に掛け合い続け、観客を笑いの渦に引きづり
込む。例えば、こんな感じ。[君と僕は長い付き合
いやね][そうやね、中学の時から20年程かな]
[世間では二人の関係を、ツーと言えば][パーか
な][君、今朝なんか、変なモン食べてきたんか]
[ええか、もう1回聞くで][ツーと言えば][サ
ー][ええとこまで、来てるんやけどな][俺も仏
のオニイちゃん、と呼ばれてるけど、限界点やで]
[ファイナルアンサー、頼むで][カーと言えば]
[ツー][分かっとるやないか、しかも逆転手法]
[もう、やってられんわ]。実にくだらない時間潰し
である。漫才は滑稽な話とされる。その普遍的本質
は社会における共有知の破壊、常識からの逸脱だ。
輝きは、常識破りの快感創造にある。ビートたけし
の赤信号通行、サンドウィッチマンの警察24時等
はその典型である。昭和、平成、令和を通じて漫才
の手法は、相当に変化している。夢路いとしこいし
の御両人は、しゃべくり漫才の原型を作り上げた。
[昨日すき焼き食ったわ][えらい豪勢やな][金
拾たんか][拾うかいな][なら取ってきたんか]
[稼いだんよ][家族一緒に御馳走食べるんは、え
もんやね][愛妻と子供の笑顔は、最高や][あの
キタナイ嫁はんと、悪ガキか][君、なんぼ弟でも
言うてええ事と悪い事があるで][そんならどっち
や][ええ事かな]。記憶ではこんな感じである。
基本は、身内の立ち話である。この型にケンカ手法
を持ち込んだのが。やすしきよしである。ツッコミ
に張手を入れて、漫才を口論、争論劇に昇華させて
ケンカ漫才を上方漫才の主流となした。[西川君]
[俺は、布団屋かい]と言い、やすしが叩かれる。
その瞬間に、メガネが吹っ飛ぶ。きよしが横を向い
た時に、やすしが足元のメガネを着けると、同時に
[見えとるやないか]と、きよしが、またドツク。
昭和の実に貧しい時代から、高度成長、バブル時代
を経て、漫才はより過激化してきた。そして、平成
時代には、若手漫才師の憧れ的存在として、ダウン
タウンが登場する。二人の漫才は、いとしこいしの
しゃべくりと、やすしきよしの張手を取り入れた、
混合手法だ。松本人志のボケ方が、加害被害の形式
から、上手にボケル型を作り上げた。浜田に叩かれ
ながらも、平然と受け流す対応は、新鮮な漫才の型
として、新風希求の若者達から熱い支持を受けた。
だが、時代の寵児、松本も今やオリラジの中田から
攻撃される状況にある。その主張点は、漫才の実力
評価に関し松本の影響力を排除し、公正化すべき、
と理解する。お笑い世界で偏差値設定の基準を明確
にするのは難事である。パーフェクトヒューマンの
登場以外、解決は不可能だ。後輩中田を擁護する。