笑い

哀調喜劇の松竹に対し、ドタバタ喜劇は吉本新喜劇
が引き受ける。大衆食堂か旅館の玄関先を舞台に、
ごめんやして、おくれやして、ごめんやっしゃー。
お馴染みの役者連中が、次から次にお約束のギャグ
を連発し、問答無用の間でお客を笑いの異常空間に
引きずり込む。ほんまにアホやで、と言いながらも
ギャグに自声を合わせ芸人気分を存分に楽しめる。
邪魔するで、邪魔するんやったら来んといてかー。
何を隠そう、空手5段やねん。通信教育やけどな。
叩かれまくった挙げ句に、今日はこれぐらいにしと
ったるわ。かいーの、かいーのと柱に尻をこすりつ
けるのは、間寛平。泣かせの寛美が笑いの美学なら
寛平は、笑いの平民だ。出来の悪い友達と遊びの時
間を共有できる。つまり、悪友の笑いだ。芸の味と
深みは違うが間口の寛さはそれ相応に支持される。
とにもかくにも、大阪、ナニワの味付けは強烈だ。
現代の各種ハラスメント問題の心配は何処吹く風と
して、アホボケ、カス、にアホンダラ。日頃、言葉
使いに気をつける萎縮した日常から開放され、自信
をもって本音で笑える。識者は笑いを、精神的緊張
からの開放であるとし、健康維持に笑いが資すると
唱える。また、研究者達は、顔の筋肉活動が感情を
伴う自発的な笑いと、社会的な場面での作り笑いや
愛想笑いは、使用される筋肉と神経機構は全く異な
る、と教える。吉本新喜劇の笑いは爆笑そのもので
そんな難しい説明は不要である。同喜劇は、ナニワ
根性の爆裂だ。出演者同士が遠慮なく堂々と馬鹿に
し合い、殴る蹴る。女子も遠慮容赦なく店の壁に叩
きつけられる。やられた女も怯まずに何さらしとん
じゃー、とやり返し、その落ちは、アー怖かった。
全員一斉にひっくり返り、次の場面へと展開する。
よく考えれば、このドタバタ喜劇には主役が存在し
ない。主張すべきテーマも一切ない。最初から最後
まで、徹頭徹尾、笑いの運動会だ。吉本新喜劇は、
現在の肩の凝る世間にあって、人権侵害の典型的な
お手本を見せつけている。それは、鬱屈し、閉塞感
漂う現世の換気扇として機能するとともに、社会的
に認知された、人権定義を超越した生命の裸体群を
さらけ出す。2025年、[いのち輝く未来社会の
デザイン]をテーマに第2回目の大阪万博が開催さ
れる。第1回万博記念公園には、太陽の塔が、今も
しっかりと立っている。作者、岡本太郎は、芸術は
爆発だ、と叫んだ。大阪、関西の住民らは全員異議
なし。寛美で泣いた後は、寛平で笑おう。涙と笑い
で良く眠れるはずだ。関西喜劇の爆発に栄光あれ。

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