命を見つめる
命とはの問いかけに対し、鑑主は[関係性の凝結]
と応える。父が居て、母が居て、そして私が居る。
両親の存在が私を創造した。この紛れもない事実を
基にして、それでは父母の創出はいかにと考えれば
当然、父母各人の両親となる。ならば、その両親は
誰が、この事実確認をすれば際限のない命脈の根源
回帰の問答となる。疑問の帰結は、誰かと誰かが今
の命を造った。つまり、現時点迄の膨大な時間経過
の中で、はかり知れない人間関係の錯綜が私自身と
いう命を創造した。よって、関係性の凝集、固結が
現生命として実在している。現代科学はこの関係性
の凝結を、DNA鑑定や遺伝子分析の手法で解明を
試みる。現状では個人の特定や病気リスクの判定が
主要であるが、最新の研究では、民族構成や祖先の
移動経路を知り、自身のルーツに迫る事も可能とな
っている。今後の研究次第では、さらなる命の解明
が可能となるはずだ。しかし、現段階ではあくまで
も個人の特性や特質を明らかにするレベルであって
命の始点を明示する事はできない。ここにおいては
やはり宗教の説得力が必要となってくる。つまり、
創造主の存在を前提とすれば、生命体としての人間
が人生を全うする上で落ちつきを得る事が可能だ。
ユダヤ、キリスト、イスラム三教が人類の精神世界
を支配している理由だ。この点、仏教は無始無終を
語り、創世神話はない。つまり、人が本能的に持つ
疑問には直接には応えず、日常苦の世界で悟りきれ
との姿勢を保持する。現状、仏教の説く輪廻思想は
理解できても納得しにくいとされ、世界の三大宗教
とされてはいるが、信者数は数パーセントである。
但し、世界情勢が政治、経済、社会面の行き詰まり
感を露呈する状況にあって、新たな解決手段を提案
できる可能性はある。善因善果の因果応報論もその
一つとなるはずだ。関係性の凝結と言う視点で命を
見つめれば、仏教の説く輪廻や解脱も理解できる。
また、一神教の説く様に人命は神との契約によって
良き存続が保証されるとする一面的解釈をすれば、
ある意味、人間には好都合な場合もある。そもそも
悪事は原罪の展開結果であり、お許し下さい、との
言葉がセリフ化しないであろうか。つまり、一神教
では命の関係性を重視していないと考える。神と人
の契約が人生の根本価値を決定する訳であるから、
人のよって来る過去に想念が及んでいない。よって
[先祖供養]によって開運を図るべしとの主張内容
は荒唐無稽と一笑されよう。また、原始宗教と評さ
れる日本教は観光資源としての価値は認められても
神道に帰依する事はない。だが、時代が激変しその
解決のため仏教と神道教義が光り、世界の真ん中で
咲き誇るかも知れない。誰かの弔辞にあった様に。