常識、良識、見識

識なる言葉を考えれば、常識、良識、そして見識が
頭に浮かぶ。常識と良識の相違は信号機で明確だ。
赤色は停止、青色は通行良し、黄色は横断に注意、
これが常識である。では良識とは、信号を常に守り
安全を確保する事である。ここで問題が一つ発生。
黄色の認識だ。赤なのか青なのか。良識とは黄色の
判断が重要。停車中の車両数や道路幅と長さ、自身
の脚力、天候状況、さらに信号転換の速度、これら
を信号通過の状況で即断する。渡りきるか、信号の
転換まで待つべきか。常識より深い洞察力と経験知
が必要。とまれ世間一般の暮らしでは常識と良識の
二つで問題はない。思慮すべきは見識である。唐突
だが、時空を超え西暦1561年、長野県北信濃の
川中島をめざす。甲斐(山梨県)の武田信玄と越後
(新潟県)の上杉謙信による第四次激闘を見よう。
両主は、北信濃の支配権を巡り西暦1553年から
12年間、5回に亘って、死闘を繰り広げ、特に、
永録四年の第四次合戦は、日本史上に燦然と輝く、
スペクタクルドラマだ。信玄は、北信濃の海津城を
拠点に2万人の軍を擁し、対する謙信は1万3千人
の兵を率い、両軍は千曲川と屑川の合流地点で激突
する。濃霧が立ちこめる中、謙信は、車がかりの陣
で、自陣の兵を重層的に配置し、波状攻撃を仕掛け
武田騎馬軍による進行を阻止。夜明けからの激闘は
続くが、戦いすんで日が暮れて、謙信は自軍共々に
春日山城へ戻る。決着は定まらず。戦国時代は群雄
割拠する乱世である。謙信が軍を引いたのは、次の
戦いを見据え軍力温存の策を選んだ。馬上、謙信の
背には毘の文字が記された軍旗が悠々とたなびく。
帰路にあって、馬上から謙信は自軍の武将に諭す。
[生きんと戦えば死して、死なんと戦えば生きる。
生死の定めは天にあり]と、馬のいななきと馬蹄
が、その言を響かせる。一方で、多くの軍旗が屹立
する信玄の陣地を訪れる。実弟の信繁や参謀の山本
勘助を失い、今後の戦いを案じて悲嘆の中にいる。
軍配で防いだが、謙信の馬上からの攻撃は予想外で
あった、と安堵の笑顔を見せるので死中に活ですか
と言って別れた。さあー、令和に戻ろう。誠に戦国
時代の戦いは集団戦だ。大規模兵力の大半は農民。
合戦のリアルは農民の心情で明らかである。日頃手
になじんだ、スキやクワを槍に持ち替えて、戦場に
かりだされる。その思いは恐怖しかない。それでも
農本主義は土地が命だ。土地を守るため大将の見識
に人生を捧げて戦場に出向く。毘沙門天の守護力と
風林火山の不動心の対決。真の命懸けを実感する。
武士道とは死す事なり。先義後利、報恩感謝、勤労
奉仕を三大主軸とする。両雄の対決が未着に終始し
た理由は、二人の見識に相違がなかった事にある。

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