日本神道と赤福
日本人の自覚無き信仰、それは神道(しんとう)で
ある。その本質は、自然崇拝である。豊穣の大地、
威容を誇る山脈群、その中を流れきる河川、陽光の
喜悦のきらめき。これらの象徴が日本神道の超然た
る聖地、伊勢神宮である。お伊勢さんと称される、
このお宮と外周には人々が近づきがたき輝きと清廉
さが共鳴し、真言宗僧侶の西行は、なにごとのおは
しますかは知らねども、かたじけなさに涙こぼるる
との歌を残した。今から約900年前の事である。
かたや、中東砂漠地帯にあるエルサレムの旧市街地
には約1キロ四方を城壁に囲まれたデズニーランド
程の大きさの広場がある。ユダヤ、キリスト、イス
ラム三教の聖地である。悲しみ、苦しみ、憎しみが
満つる、悲嘆の聖地である。自然の美を鑑賞できる
人は皆無である。お伊勢参りの言葉は愛すべき人心
の躍動が感じられるが、エルサレムへの聖地巡礼は
最後の審判を受ける人達の緊張感が、互いを威嚇し
合い、笑顔はない。コーランと聖書の朗読の響きは
壮烈な鎮魂行である。日本神道は、どこまでも清浄
を尊び、穢れ(けがれ)なき事を真髄とする。神の
厳しい善悪の選別はなく誰もが黄泉(よみ)の国へ
渡り再びこの国に戻って来る。蘇り(よみがえり)
を願って人は神前で柏手を打ち、魂を覚醒させる。
分厚い聖典はない。聖典宗教は、神の実在論であり
予定説である。即ち、実在の神の言質が絶対的で、
従うか否か、これが唯一の選択肢である。仏教では
悟りの因果律、善因善果に因果応報が大原則であっ
て、神の実在は認めない。農耕民俗である日本国は
悠久の時の流れに命を見極め、命脈尽きれば土に還
るを信条とする。三教の説示が、いわば行動規律型
である事に対比し、仏教は思索探究型宗教である。
大和国の精霊充つる大地に浸透し易く、ものの哀れ
を嘆く日本人に受容されたのは仏教であり、悟りの
行は日々の暮らしを柔らかく包み込んだ。平安時代
の神は仏の化身であるとする本地垂迹説は神仏融合
の歴史的起点となった。だが、明治維新に廃仏毀釈
運動が勃興し、仏教排斥が過激化する中で日本神道
は国教化され、皇国思想の絶対化により純粋日本教
として確立された。その後、太平洋戦争終結により
政教分離が現憲法において明記され、現在では国家
から分離された多くの神社は神社本庁を結成し再度
の国教化をめざすが国民の関心は希薄である。ちな
みに芸術文化の観点から我が国の文化遺産を見れば
全てが美的精神の発露であり、時代ごとの完成され
た様式美である事が分かる。その根底に自然優美の
讃歌がある。弥次さん喜多さんが、伊勢街道の茶屋
で食したであろう、赤福餅は五十鈴川の流れを餡に
写している。日本では、餅菓子さえ日本教である。