涙
人生は泣きで始まる。母親の慈愛に包まれてやっと
落ち着き、泣き顔は笑顔に変わり自ら笑い出す。
やがて少年少女、青年女子と一人前に育っていく。
この間、様々な出会いと別れを繰り返し、望む望ま
ずとも幾度となく涙の日々を経験する。
さらに、歳を重ね、生きる意味を自問自答する中、
苦悩は深まり気づけば絶望の深淵に身を落とし貝の
如く心を閉ざす。泣くことさえ無くなる。
そんなある日、友人に誘われてある喜劇を観に行く
ことになった。舞台中央で頬を赤く染めお店の主人
に叱られながら、時にはどもりつつも精一杯言い訳
をする。その軽妙洒脱なやり取りに会場は大いなる
笑いに包まれる。突然舞台の照明が落ちその丁稚に
スポットライトが当たり、セリフの口調が変じ始め
観客一人一人に言い聞かせる様に本心を語る。実は
他の丁稚をかばうために嘘を言ったことが明かされ
ていく。さっきまでのお笑い空間は一種独特の緊張
感をはらみ、静寂基調に転じる。観客の多くが目頭
をハンカチで抑えても一筋の涙が頬をつたう。
そう、喜劇役者、藤山寛美ワールド全開である。
寛美自身が独特の声調で観客に訴えるのは、人生の
不条理であり、不条理こそ現世の真理であること。
寛美、寛美と大向こうが響き渡り、静かに緞帳が降
り、閉幕となっても多くのお客は立ち上がれない。
感動の余韻に身を置き、至福の一時に酔っている。
一方、主役の寛美は、自身の放蕩とされるお遊びの
ため借金を重ね舞台袖で待ち受ける金貸しと間合い
を詰めた修羅場に立っている。手を合わせ業者に泣
きを入れている。恐らく希代の喜劇役者も観客同様
生き抜く厳しさに押しつぶされていたに違いない。
その重圧をはねのけて、舞台に上がり続けた寛美は
いつも姿勢を崩すことなく、人生の泣き笑いを演じ
きった。彼にとって舞台は現界と霊界のはざまにあ
る魔界であったのかも知れない。
あらためて合掌。