開運原論
開運原論 運命に関する考察(1)
固体としての人間、全身を取り囲む環境空間。コッコツと刻まれる
時間。この時空間にあって、適正な重力を受けながら、人は地上生活
を営々と継続する。そして、毎日の定型的な生活の繰り返しの中で、
たまたまとか、思いがけなく、まさかの、色々な出来事を受けて、
人はつぶやき、悟る。これは、まさに運命だと。
一目惚れなど、その典型である。彼氏、彼女との出会いは、強烈な
場面であり、お互いを運命の人と呼び、
日頃の冷静な思考は、何処かへ飛び去り、体は舞い上がり重力を跳ね返して
うっとりと嬉し涙で見つめ合う。
さて、この出会いを運命と言うべきか。別の例を上げよう。
何かのきっかけで株を購入した。それが、急騰して大儲けできた。
やはり、株投資が金持ちの近道だと大喜びする。これを運命とするべきか。
鑑主の知るかぎり開運論者の殆ども、明確に説明できない事象である。
思うに、何事も広狭二義がある。運命についてもそうである。
上記の出会いや金儲けも広い意味では運命であるが、開運の視点で見れば、
運命ではない。これらは、単なるきっかけに過ぎない。言い換えれば、
偶然と考えるのが正しい。では、開運論における運命とはいかに。
それは、偶然を必然化する力である。
たまたまの出会いや僥倖が継続的、断続的に発生し、自身の想像を遙か
に超える領域に達する力、逆に悲恋や破産の浮身に零落してしまう展開も
ある。出会わなければ、もっと良き恋人に出会えていたのに、株式投資の
旨味を知ったがために本業がおろそかになり、事業破綻に到るケースも
ある。これら良運と悪運、いずれにも偶然が必然化される力が働いた結果な
のである。以上は、鑑主の説く運命に関する序章論である。
次回以降において、狭義運命を前提に、自力、他力開運論、それを踏まえて
開運家相、開運姓名について概略を説明し、相談者各位の納得と感得を得
たいと考えている。